自転車生活のススメ
自転車が路側帯を通行する場合、左側通行がルール化されました。
78歳の執念 「かぐや姫の物語」
弱さを知ってこその強さ 「ゼロ」 堀江貴文
六本木ヒルズを舞台に大暴れていた堀江は、鼻っ柱が強い、ビックマウスな拝金主義者というイメージが強い。
しかしこの本から伝わってくる堀江貴文は、少し違う。
2年6ヶ月の実刑判決。
拘置所での独房生活。
留置場では、介護衛生係として高齢受刑者の下の世話をした。
すべてをさらけ出すかのように、塀の中の日々についても赤裸々に書き綴る。
かつて堀江は、ITバブルの波にのり、一躍時代の寵児となった。
当時のメディアは「不遜なIT成り上がり者」としてその姿を伝えることに終始した。
大衆もそれを望んだ。恐らくは、堀江自身もその役を演じ切ろうとしていた。
しかしその「虚像」は、堀江自身の手に終えないほどに膨張し、気がつけば多くを失っていた。
そんな堀江が、刑期をおえるタイミングで上梓したのが、「ゼロ」だ。
「かっこつけず」にありのままの自分を伝えようとつとめたという本書には、これまで自分を助けてくれた人々への感謝の言葉が並んでいる。
独房での孤独な夜、人知れず嗚咽していた自分に、食事の穴から声をかけてくれた刑務官。
逮捕された後、全てを失ったと失意の最中に、寄せ書きをくれた仲間たち。
幼い堀江少年に、あなたのいるべき場所はここではないと、道を示してくれた小学校時代の恩師。
多くを失い、再び「ゼロ」から立ち上がろうとする堀江は、自分の弱さをさらけ出す事に迷いがないように見える。
この本の中で、かつての自分をこう振り返っている。
“これまでは自分の意見を伝えるときに結論だけ急いで言っていました。”
“マスメディアを通じて言葉の表層だけが伝わってしまうことが多々ありました。そしてそのときは賛否両論あるのも分かったうえで、それでいいと思っていました。でも今回は、できるだけ多くの人に本心を分かってほしいと思い・・・”
自分とは一体何者なのかを、他者に伝えることは思いのほか難しい。
多くの人は、かつてのホリエモンのように、どこかであきらめている。
人と人とはそんなに簡単に分かり合えるものではない。
どうせ分かってもらえないと自分の殻に閉じこもってしがいがちだ。
しかし「分かり合う」ということの前提にあるのは、まず自分を晒すとことだ。だからこそ自分の弱さをさらけ出し、想いを伝えることのできる人間は、強い。
お笑い芸人がもてはやされるのには、ちゃんとした理由がある。
それは自分の短所を客観視し、それを笑いにかえることで、人との距離を縮めることができるからなのだ。
どん底をかいま見た堀江は、自らの辛い経験を語ることに躊躇がない。
その言葉は、これまでのどんな強弁よりも、強いチカラを持つ。
優れたインタビューとは? 「流星ひとつ」沢木耕太郎
インタビューというのは、誰がしても同じには決してならない。
資料を事前に読み込み、どんな順番で何を聞くのか、プランを立てて臨む。
それでも人はなかなか本当のことはしゃべらない。拙速に心の深淵にたどり着こうとすれば、真実はくるっと踵を返し、歩き去ってしまう。
最終的に何が決め手になるのか、それは聞き手そのものの「人間としての力」である。
沢木耕太郎の「流星ひとつ」には、聞き手が、手探りで、だが確実に取材対象との「間合い」を詰めていく様が記録されている。2人の息づかいのようなものが行間から伝わってくる。
舞台は1979年秋、東京紀尾井町のホテルニューオータニ四十階にあるバーだ。ウオッカ・トニックを飲みながら、天才歌手・藤圭子という才能の本質へと間合いを詰めていく。その瞬間にしか生まれない、「張りつめた空気」がこのインタビューにはある。
インタビューが嫌いだと言い切る藤圭子に、沢木はこう宣言する。
「インタビューというのは相手の知っていることをしゃべらせることじゃない、(・・・)すぐれたインタビュアーは、相手の知らなかったことをしゃべってもらうんですよ」
この沢木の覚悟の宣言が、作品のドラマツルギーとなる。
つまり藤圭子は自分も気づいていないような心の底に眠っている「秘めたる思い」を、果たして話す事になるのかということだ。
幼い頃、父母に連れられての旅芸人の生活、歌手を目指して上京、稼ぐために流しをした、貧しい服を着ながらもキラキラした日々、型にはまらない等身大の、人間・藤圭子の姿が次第に浮かび上がっていく。
人の人生は、決して類型化できるものではない、その沢木の優しいまなざしが、そこにはある。
沢木耕太郎は、日本を代表するノンフィクションの名手である。
その沢木が、1979年に引退宣言をした藤圭子へのインタビューをまとめたのが「流星ひとつ」。当時、新しいノンフィクションの「方法」を模索していた沢木は、この作品において一切「地」の分、つまり説明を加えずインタビューだけで描き切るということを試みた。藤は、これまで語る事のなかった「引退」への思いと決意を語ったこの作品は、当時としても強いインパクトをもっていたと思われる。しかし沢木は、この作品を一旦封印した。
「これから新しい人生を切り開いていこうとしている藤圭子」にとって邪魔になるかもしれないと考えたこと、そして自分のノンフィクションの「方法」のために。引退する藤圭子を利用したのではないかという気持ちがあったのだという。
しかし沢木は、33年の時をへて、その封印を解いた。
藤圭子の死以来、マスコミは彼女を変人扱いし、肉親たちの想いのすれ違いを面白おかしく、そして執拗に報道しつづけた。
精神を病み、長年奇矯な行動を繰り返した果ての投身自殺ということだけがクローズアップされた。そんな最中、このインタビューを世に出す事を決意したのだという。後書きには、宇多田ヒカルに「輝くような精神の持ち主」だった藤の姿を知ってほしいと願う、自らの気持ちを綴っている。
33年前にこの作品を封印した理由と、その封印を解いた理由は、根底のところでは同じなのではないだろうか。
かつて、尊敬するドキュメンタリーカメラマンからこういわれたことがある。
「人を記録するということは、その場限りのものではない。人の人生に踏むこむということは、その人との関係を生涯にわたって続けていく覚悟があってこそだ」
実は、沢木は当時、藤圭子と非常に近い関係だったとする報道もある。その真相は分からない。しかしそのことでこの作品が放つ輝きは損なわれることはない。
ノンフィクションというのは、人との関係を記録する事である。
そんな意味において、沢木のこの作品は、その本質に挑んでいる。
その場所にいるという「才能」
何かを成し遂げ、世に出た人の話を聞くと、いくつかの類型がある。
そのひとつは、面白い場所を見つけ出す、ということだと思います。
最近亡くなったルー・リードも、アンディ・ウォーホルがNYに作った有名無名の才能が集まる場所、ファクトリーに出入りするようになり、彼のプロデュースによってベルベット・アンダーグラウンドの伝説的ファーストアルバムが生みだされました。
若き日にパリにわたった岡本太郎は、写真家のマン・レイやロバート・キャパ、小説家のジョルジュ・バタイユなど、そうそうたるメンツと親交を深め、自らの芸術を突き詰めていったといいます。
こうした事例は、枚挙にいとまがありません。
才能が、才能を引き寄せ、大きな磁場となり、さらに新たな才能を呼び寄せる。そこには「勢い」があり、その場にいた者が同時多発的に世に出て行く。
ジョブズが若い頃のシリコンバレーもまさにそんな場所だったのだと思います。
21世紀の日本に、そんな才能を引き寄せる「磁場」はどこにあるのでしょう。
今の時代、それは必ずしもリアルな場所ではなくなっていると思います。
ネットが発達しSNSで空間をこえて、誰とでもつながれる今、「磁場」はいたるところに発生しうるのです。
世に出るかどうかは別にして、まずは自分の考えや思いを発信することが、大切なことなのかもしれません。自分が何者であるのか、それを言表することで同好の士に出会う可能性は格段にあがります。
かつてウォーホルは、「誰もが15分間なら有名になれる時代が来る」と予言しました。
誰もが何かを共有できる「磁場」を作ることができる、そんな時代となった今、その言葉が、より普遍的は意味を持ち始めているのかもしれませんね。
批判される人間であれ
かつて携わった番組で、出会った言葉です。
Twitterで紹介をしたら、3000回以上もリツイートされました。
「批判される人間でいろ。 決して評論家になるな。何かをやっていれば必ず評論家みたいに批判する人が出てくる。 批判をされるということは何かをしていることだから」
プロフェッショナル 仕事の流儀 脳外科医・上山博康さんの言葉
今、まさにこの言葉がとても大切な時代になっていると感じています。
これまで共有されてきた社会の幻想が崩れ去り、新たな哲学が必要になっているからです。
いい大学にはいって、いい会社に入れば、将来は安泰なんてことも、これだけ産業構造が急速に変化し、まして経済が不安定な昨今では、なかなか通用しません。
マイケル・ムーア監督は「キャピタリズム〜マネーは踊る」で、共同幻想が崩壊した後のアメリカの大混乱を描きましたが、そもそも資本主義そのものが、本当に今のカタチのままでいいのか、リーマンショック以降、多くの人が不安に感じています。
そんな今、時代を動かすのは新たな「知性」だと思います。
しかし新しいことを始めると、批判に晒されることがしばしば起こります。
なぜなら変化は、必ずしも万人にとっての善ではないからです。
摩擦をさけてばかりでは、新たな哲学を生み出すことはできません。
シリコンバレーには、「マドルスルー」という言葉があるといいます。
イノベーションは一朝一夕にはなしえない。
もがき続けているうちに、ある日、パッと道が開けることがある。
新たな何を掴む、その道行きは、泥の中を行くがごとしなのです。
「批判される人間であれ」
新しいことに挑戦する時に、この言葉を思い出し、泥の中に飛び出していきます。
でも、批判されずに済むならそのほうがいいんですけどね (笑)
果たしてAppleはブラック企業か?
At アップルストア 渋谷 (Apple Store) / shinji_w
映画「スティーブ・ジョブズ」をみて、はたと思った事があります。
ジョブズ率いるAppleは、果たしてブラック企業なのだろうか?
まさか、世界一の企業がそんなことあるはずがないって思うかもしれません。
でも、ジョブズみたいな傍若無人なボスがいて、無茶苦茶な納期を強いられて、ダメなら罵倒されて、突然解雇されることもあって...
そう考えると、まさにブラック企業だって気もしてきます。
もちろん世間を賑わすような企業のように、劣悪な労働環境の元で、低賃金で働かせるなど明らかに...という場合は、早急の改善を求めたいものです。
でも一般的には、ブラックじゃなくってグレーというか、曖昧なことが多いのではないでしょうか。
徹夜で働く、このことについて考えてみようと思います。
リスペクトできない上司、コロコロ変わる方針、またその仕事の意味が分からない。
この状態で連日徹夜仕事を続けるのは、辛いと思います。
でも、腕利きで尊敬に値する上司から、ワクワクするような仕事を任されたとします。
人によっては、徹夜も厭わず、最善の仕事を残そうと奮い立つでしょう。
つまりは、明らかなブラック企業は別として、職場の人間関係だったり、仕事との向き合い方だったりという部分によることもあるような気がします。
やらされ仕事は、辛いことが多いでしょう。
その仕事のビジョンを共有していなければなおさらです。
しかし自分がやりたい仕事だとすれば、そこは違ってくるんですよね。
達成感や学びを得られるとか、何らかの意味を見いだせるかどうかということだと思います。
実際にナチスで行われたという、この世で最も残酷な拷問の話を聞いた事があります。
それはいたって単純です。
午前中に地面に穴を掘れと命令します。
そして午後には、その穴を埋めろと命令します。
それを毎日繰り返すのです。
無意味な重労働に、次第に精神を病んでいくといいます。
怖い話です。
最初の設問に戻りましょう。
それはその人の受け止め方によるのではないでしょうか。
世界を変えるかもしれない仕事にワクワクしていればがんばれる。
徹夜も、ジョブズの現実歪曲フィールドも、受け止められるのかもしれません。
やらされ仕事ではなく、自分の仕事にする。
ヒントは、そのあたりにあるのかもしれません。